「和田義盛の碑
鎌倉武士の栄枯盛衰の典型的な例は和田一族であるといわれています。
一族を率いた和田義盛は、鎌倉幕府創建の功労者、半島の剛勇三浦大介義
明の孫に生まれ、当三浦市初声町和田を領したことから和田氏を名乗り、武
勇はことのほか勝れ、弓矢にかけてはこの右にでる者がない程でした。
頼朝挙兵に参加したとき、義盛は三十四才でしたが、以後大いに活躍、鎌倉
建府の大立物でした。その功によって最高職の侍所の別当に任ぜられ、頼朝、
頼家、実朝の三代にわたって忠誠をつくしたが、退潮する源氏に替って天下を
ねらう北条氏とことごとに対立するようになり、ついに北条義時の挑発と策謀に
のり、いわゆる「建保の乱」を起しましたが、同志と信じていた同族の三浦義村
の北条方への寝返りもあって、建保元年(一二一三年)五月四日、鎌倉由比ヶ
浜で北条氏のために滅されてしまいました。
時に義盛六十七才、この石碑は武将和田義盛の在所と思われるこの地に、
郷土の武人として、悲運の最期を偲び、その武勇をたたえて大正十年三月に
建立されました。」
この解説板があるのは、初声町和田
引橋方面から行くと和田児童会館の交差点を左折
50mくらい進むと三差路になっており、その左側の公園のような感じのところ
にあります。