「入江新田と矢作
昔からこの附近は低地で、入江が深く宮田湊、矢作湊と呼ばれるところで
耕作がむずかしい湿地でした。
そこで宝永五年(一七〇八年)十一月、和田村、赤羽根村、竹の下村、下
宮田村の各名主や年寄達が協議して、太田和村(横須賀市武山)の山田惣
左衛門、六郎右衛門等による改良工事が行われたもので、三十年の後、元
文三年(一七三八年)に完成して入江新田という村を成したものです。しかし
その間、惣左衛門は病死してその子儀左衛門がこれを引継ぎ、親子二代に
わたる大干拓事業でありました。
工事としては、長さ二百二十間(四〇〇メートル)高さ九尺(二.七メートル)
の堤をつくり、汐入をとめて耕地とし、その面積実に十五町歩(約一五ヘクタ
ール)以上に達したといいます。
また、この入江新田の西の地域を矢作といい、伝説によりますと、鎌倉の武
将和田義盛が、ここで矢を作っていたので、その名があると伝えられています。
なお、現在この地の西崖の残る洞窟はほとんどが古墳後期(七世紀頃)の横
穴の墳墓で、それは、西の台地にある蛇塚(円墳)を中心としてその頃の集落
があったことを物語るものです。」
この解説板があるのは初声市民センター
長らく続いた三浦市観光解説板もこれで終了です
もちろん、ここで紹介した以外にもまだあります
この仕事で改めて地元の事を勉強出来ました
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